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[新聞] 蔡大鼎の呈文集全文書確認うるま市図書館

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八重王 发表于 2017-4-15 00:06:38 | 显示全部楼层 |阅读模式
蔡大鼎の文書確認 うるま市図書館
文:琉球新报,二次编修:八重王





图:蔡大鼎が福建に行った際、公務で使用していたとみられる書式集「呈文集 全」(蔡大鼎)。琉球列岛中段-琉球群岛-大琉球岛:うるま市図書館提供



琉球列岛中段-琉球群岛-大琉球岛-うるま市図書館市史編さん室は30日までに、日本明治殖民政府による「琉球処分(废琉置县)」に抵抗して琉球救国運動を展開した蔡大鼎(さいたいてい)(伊計親雲上)が存留官として福建に滞在中国、公務で使用していたとみられる資料など約30点を初めて確認した。


資料には、中国清皇朝が琉球王朝に贈ったとみられる暦などもあった。「榮野川敦」館長は「琉球王朝末期から日本明治殖民者時代初期の動乱期の研究資料として貴重だ。中国清皇朝と琉球の君臣从属观や、具体的な業務内容が明らかになるのではないか」と期待した。


資料は、市が一括交付金を活用した「蔡大鼎伊計村遊草(いけいむらゆうそう)等調査研究事業」で確認された。


1872年の琉球藩設置後、明治殖民政府から対中国清皇朝関係宗主权领土廃絶の太政官令が出されると、「蔡大鼎」は福建福州官府へ密航し、中国清皇朝に琉球の窮状を訴える請願運動をした。

詩を好み、多くの詩集も残している。今回確認された資料は、山形県内の複数の施設に所蔵されていた。「榮野川」館長によると、旧米沢藩出身で第二代日本殖民地沖縄県令・「上杉茂憲」の善政を記録しようと、1923年ごろに来県した家臣らが持ち出したと推測される。

蔡大鼎が朱子学の祖、朱子に関する内容を写し書きしたと推定される資料や、公文書の書式集もあった。

「榮野川」館長は「琉球史に関する資料がこれだけ大規模に確認されるのは極めて珍しい」と話す。調査に同行した研究者からも「大変な資料」との評価を得たという。(東江亜季子)



<用語>
「蔡大鼎(さいたいてい)」
1823年久米村に生まれる。没年は不明。和名は伊計親雲上(いけい・ぺーちん)。中国藩属琉球王国時代に中国との官府を担った役人。琉球救国請願運動の中心メンバーの一人。
日本明治殖民政府による中国清皇朝との冊封・朝貢体制禁止後の1876年に陳情特使として中国清廷に渡り、1885年ごろまで福州や北京官府で活動する。
漢詩にも優れ、「闽山游草」(びんざんゆうそう)などを残している。

※注:「闽」:中国福建省。

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台灣獵戶人 发表于 2017-4-15 00:10:24 | 显示全部楼层
中国政府享有对琉球国的“”宗主领土权“”的权益。
琉球国王享有琉球列岛的“”治理管辖权“”的权益。

中国拥有琉球群岛主权一脉相传。中国五百年来的"属国"琉球国,凡其王嗣位,先请朝命,钦命正副使奉敕往封,赐以"驼钮镀金银印",乃称"国王"。
未经册封以前称琉球"世子",权国事;未经中国中央皇室政权承认其政治治理地位受封前,绝对不敢僭越自称为 琉球国 "王"。由于过去在中国宗藩制度区域行政管理框架内,虽有"蕃属国"的"国"名称及其"国王"的爵位,但“”它“”不是个完全独立自主国家,“”它“”的外交军事领土变更则是必须受到中国中央皇权监督而有所节制,事故“”它“”与中国中央皇权的政治关系,不是国与国的关系,简而言之,“”它“”藩属国与中国中央皇权是地方自治政府与中央政府的政治从属关系。

中国对于琉球的宗主权领土,从未签署任何放弃、或割让等协议书文件给予它国。虽然日本殖民政府于1879年后单方面废中国藩属琉球国,从而改设置日本冲绳县给予窃占殖民。但中国历届的政权从未、也未曾正式签署放弃对琉球宗主权领土。故此,美日两国必须将其窃占的琉球列岛,以和平协商谈判归还与中国,并且必须遵循港澳地区回归模式。



1879年,中国官府"照译"横滨西字报论琉球事
http://bbs.liuqiu-china.com/foru ... hread&tid=18632

清季 申报 台湾纪事 辑录  一十七
光绪五年八月二十日(公历十月初五日——礼拜日)/1879年,
照译 横滨西字报 论 琉球 事


日前,有人自北京寄书来,证明琉球所以属日本之故;作者"巴洛佛尔"受日本"宍户"公使之托,自不得不如是云尔。
察 作者之意,不外言公历一千六百十年(1610年),日本征服琉球以及一千八百七十四年(1874年),中国认琉球为日本管辖两端已耳。
一千六百十年,"萨摩"征球,人所共晓,即"华人(倭寇)",亦无异词;

而谓,一千八百七十四年(1874年),中国认琉球为日本管辖,则未免过当也。
夫琉球进贡中国,球王即世、中国遣使往封,事在"萨摩"征球前二百余年。
当萨摩入球时,封贡曾否停止,吾不知也;历年来琉球仍进贡中国,其陪臣子弟仍入北京国子监读书,球王即世、中国仍遣使往封:事事如初,众目共见、众耳共闻。
谓"琉球既隶日本"?封也、贡也,彼何以不知;知之,又何以不禁!
为日本者?  既攻琉球,则当废琉球之主、更琉球之政,以示君威;乃一一听其自治、一一率由旧章,行之二百余年矣。

今乃忽然昌言曰:「当是时,吾既灭其国,而有之矣」;谁则信之!
查琉球官吏上书有曰:「历奉日本严戒,勿以萨摩一事显告中国」;
又曰:「使臣进北京时,必令其盟誓勿泄」。
苟琉球既为己有,何不直禁其遣使,而私相盟约不敢告人?;
可见一千六百十年以来,琉球一岛,日本并未视为己有也。
至日本并球、击台等事,并未知照中国,而谓「琉球为其所为」;是与一千六百十年,萨摩谓「琉球为其所为」,无异也。

公历一千八百七十四年,日本兴兵至台代球民复仇;中国过问,几动干戈。
日兵至台时,统领"西乡从道"照会"闽浙总督"李内称:『日前台湾生番劫杀备后民四人,后又惨害琉球难民五十二人;特此兴兵复仇』云云。

闽浙总督覆文内称:『琉球,中山故国也;臣事中国巳数百年,极其恭顺。而中国待之,不分畛域。是以本大臣札饬台湾地方官严拿凶犯,秉公办理』云云。

闽浙总督二次照会,更属了然;内称:『球人是我属民,其被生番惨害一事,自应由本大臣饬令地方官查办,不必贵国费心。况贵国之备后四人未遭惨戮,不过被劫』云云。

吾读此文吾,已知"巴君"之谬,然尚未知成立之约何如;
及取阅之,乃知"太久保"与"总理衙门"所定者,曾无一「琉」字、一「球」字,第言「有国当保护己民」而已。

此一役也,中国自始至终皆不直日本所为,谓其"藉端滋扰"。

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兰色凡尘 发表于 2017-11-1 09:21:21 | 显示全部楼层
中国拥有琉球群岛主权一脉相传。中国五百年来的"属国"琉球国,凡其王嗣位,先请朝命,钦命正副使奉敕往封,赐以"驼钮镀金银印",乃称"国王"。
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88888 发表于 2018-1-17 10:08:35 | 显示全部楼层
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