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楼主: 关天培

[原創] 1944年蒋介石:日本主权领土不及虾夷岛(北海道)

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台灣獵戶人 发表于 2015-2-26 18:48:09 | 显示全部楼层
鲍尔东(Boldone)「日本图」(『世界岛屿志』)[威尼斯 大永八(1528)年]木版8.4×14.5cm 这是在欧洲印刷出版的第一张单幅日本地图。15年后,葡萄牙人作为第一批欧洲人到达日本。


作者Gerardus Mercator(Gerard Kremer)(1512-1594) 十六世纪的荷兰地图制作者,数学家,并被大多数人认为是 Ptolemy 之後最出名的地理学者。此图为其逝世当年所作






明神宗万历34年(1606年)”洪狄乌斯”绘制「日本图」(『新地图帖』)[荷兰阿姆斯特丹出版,明神宗万历34年(日本庆长11年/1606年)]铜版笔彩34.1×44.4cm。 此图依据”泰西拉”(Teixera)「日本图」绘制。
【备注:再次证明中国宗藩制度下的中国领有藩属朝鲜国的宗主权,“虾夷岛(北海道)、朝鲜半岛与左边中国沿海的陆地同色块”,并且与日本本土各岛屿做不同色块区别,借此表示虾夷岛、朝鲜半岛不属于日本主权领土】。

日文:
ホンディウス「日本図」(『新地図帖』より) , [アムステルダム 1606年]  
銅版筆彩 34.1×44.4cm。この図は、6テイセラ「日本図」に拠って描かれたものである。












1658年(中国清顺治11年)杨松(Jansson)「日本、中国虾夷图」
(『新地图帖』)[于荷兰阿姆斯特丹出版 ,中国清顺治11年(日本万治元/1658年)]铜版笔彩45.4×54.9cm 。此图同时文字记载显示了,荷兰人弗里斯(Fleece)1643年(明思宗崇祯16年/清太宗崇德8年)进行的针对”虾夷”、”千岛群岛”的探险成果。
但由于”弗里斯”误以为“”千岛群岛、库页岛、虾夷岛“”全部连为一体,于是此后150年间,在欧洲的地图上,”虾夷”都画得比起实际大得多。

日文:
ヤンソン「日本および蝦夷図」(『新地図帖』より) ,   [アムステルダム 1658年] 
銅版筆彩 45.4×54.9cm 。
この地図には、オランダ人フリースが1643年におこなった蝦夷と千島列島への探検の成果があらわされている。しかし、フリースが千島列島や樺太を蝦夷の一部と考えたため、この後 150年間、ヨーロッパの地図上で、蝦夷は実際よりずっと大きいものとして描かれた。





1683年,桑松(sanson)「日本图」(『亚洲地图冊』)[于法国巴黎出版,中国清圣祖康熙22年(日本天和三年/1683年)]铜版笔彩18.5×23.8cm 。
这张地图与1658年杨松「日本、中国虾夷图」相比,日本本州岛画得稍长,而对1643年”弗里斯”有关”中国虾夷岛“的发现则是完全忽视(因”库页岛、虾夷岛、琉球列岛”均属于中国明朝固有的主权领土)。
日本本州岛的东南的各个小岛在”1658年杨松”「日本、中国虾夷图」里全部画在”房总半岛”的南面,而在”桑松”的图里它们则被安排在房总半岛周围。

日文:
サンソン「日本図」(『アジア地図帖』より) , [パリ 1683年]
銅版筆彩 18.5×23.8cm 。
この図は、9ヤンソン「日本および蝦夷図」に比べて本州が少し伸びて描かれ、蝦夷地に関してはフリースの発見はまるで無視されている。本州の南東にある小さな島々は9ヤンソン「日本および蝦夷図」では全て房総半島の南にあったが、サンソンは房総半島のまわりに置いている。






清高宗乾隆13年(1748年)李·罗格(le ROUGE)「日本、中国沿海、中国藩属朝鲜地图」。【备注:再次证明中国宗藩制度下的中国领有藩属朝鲜国的宗主权,“朝鲜半岛与左边中国沿海的陆地同色块”,并且与日本本土各岛屿做不同色块区别,借此表示朝鲜不属于日本主权领土】。(『新携地图帖』)[巴黎 清乾隆13年 (日本宽延元年/1748年)]铜版笔彩20.6×27.5cm 李·罗格的日本图整体呈带状,从西南延伸到东北。李·罗格参考了余赫泽(scheuchzer)「日本图」中九州·四国以及岛根·能登·房总·纪伊半岛的形状画法。

日文:
ル・ルージュ“”日本および朝鮮図“”,(『新携地図帖』より),[パリ 1748年] 
  銅版筆彩,20.6×27.5cm 。ル・ルージュの日本図は全体としてほっそりとしており、南西から北東に伸びる。ル・ルージュは、13ショイヒツァー「日本図」から九州・四国の形と島根・能登・房総および紀伊半島を取り入れた。


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台灣獵戶人 发表于 2015-2-26 19:12:13 | 显示全部楼层
本帖最后由 台灣獵戶人 于 2015-2-26 21:52 编辑

『集古図』収録850年「輿地図」


14世紀「拾芥抄」所载大日本国图,刊6冊,鷹見家歴史資料。14世紀初頭に成立した百科全書『拾芥抄(しゅうがいしょう)』に掲載された「行基図」


仁和寺蔵日本図1305年


唐昭提寺藏南瞻部洲大日本国正統図,约1550年



大杂书插画:大日本国地震之图


南瞻部洲萬國掌菓之圖;萬國繪圖(書題簽) ,大日本國京兆頭陀浪華子製圖并撰
寶永歳次庚寅抄春月穀旦 -- 書肆 文臺軒宇平藏版 -- 木版 -- 1舗 -- 113.8×141.6cm(23.9×18.3cm)




1500~1700的日本地图(国土地理院收藏)

文禄四(1595)年的日本列岛(鞑靼图:奥特利乌斯)


庆长七(1602)年的日本列岛(亚洲图:洪狄乌斯[Hondius])


庆长十一(1606)年的日本列岛(日本图:洪狄乌斯)


万治元(1658)年的日本列岛(日本六十六州图:利兰[leland]和奥藤斯[Ottens])



享保十五(1730)年的日本列岛(世界图:苏特[Seutter])



宽政四(1792)年的日本列岛(世界图:多里欧[doreal])

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台灣獵戶人 发表于 2015-2-27 01:51:32 | 显示全部楼层
本帖最后由 台灣獵戶人 于 2015-2-27 02:34 编辑

「西洋古版日本地図展」開催にあたって
期間:2002年7月5日 ~ 7月31日
文学部教授 石田千尋


  今回、鶴見大学図書館が所蔵するヨーロッパで刊行された古地図の中から日本地図を厳選し展示します。
   1298年、マルコ・ポーロが『東方見聞録』の中で日本を紹介して以降、日本はさまざまな形に想像され、西洋の地図上に描かれました(1・2・3)。その後、1543年ポルトガル人が日本にやってくると、ポルトガル商人や宣教師らを通して日本に関する地理的情報は次第に地図上に姿を見せてきました。しかし、初期のものはポルトガル人の知り得た関西近辺までで、関東以北は未知なる世界でした(4・5)。1595年、オルテリウスによって発行されたルイス・テイセラの本州・九州・四国がほぼ正確な対比で描かれた「日本図」(6)(日本の「行基図」(7)を基にしていました)によって、西洋の印刷された日本地図が新時代を迎えたといえます(8)。しかし、17世紀になると必ずしも正確とはいえない様々な情報が加えられ、日本図は変形されながら継承されていきました(9・10・11・12)。1728年のショイヒツァー「日本図」(13)は、17世紀末にケンペルが日本から持ち帰った日本図(14)を基に作成されたものでした。それは、あまり正確なものではありませんでしたが、その後の日本地図に大きな影響を与えつづけました(15・16・17・18・19)。18世紀後半以降には日本近海を航行するヨーロッパ船が多くなり、新発見の報告書から日本地図も正確さが加えられていきました(20・21)。1840年、長崎の出島商館医であったシーボルトが帰国後出版した日本地図によって、ヨーロッパの地図学に残されていた神話や誤謬が除かれ、西洋における日本の地理的形状には近代的な基盤が与えられることになったのです(22)。
 今回展示します16世紀から19世紀に及ぶ西洋古版日本地図を通して、ヨーロッパ各国・地域、各時代における地理上の「日本」認識のありさまと、地図を媒介とした日本と西洋との文化交流の諸相をご覧頂ければ幸いです。


(註)本文中の括弧内の数字は展示品番号です。



展示リスト   

1.ヴァルトゼーミュラー「インドシナ半島と大韃靼図」
  (プトレマイオス『世界地理書』より)
   [ストラスブルク 1522年頃]  木版  28.8×45.9cm

2.ボルドーネ「日本図」(『世界島嶼誌』より)
   [ベニス 1528年]  木版  8.4×14.5cm

3.ミュンスター「新世界図」(『世界誌』より)
  [バーゼル  1552年]  木版  25.5×33.9cm

4.オルテリウス「アジア図」(『地球の舞台』より)
  [アントワープ 1570年]  銅版筆彩 37.0×49.4cm

5.ファン・ラングレン「東アジア図」(ファン・リンスホーテン『東方案内記』より)
   [アムステルダム 1596年] 銅版 38.6×52.6cm

6.テイセラ「日本図」(オルテリウス『地球の舞台』より)
   [アントワープ 1595年] 銅版筆彩 35.4×48.2cm

7.行基「大日本国図」(洞院公賢編『新版拾介抄』より)
 [京都 風月荘左衛門 江戸時代前期(17世紀後期)] 木版 21.7×35.6cm

8.ホンディウス「日本図」(『新地図帖』より)
   [アムステルダム 1606年] 銅版筆彩 34.1×44.4cm

9.ヤンソン「日本および蝦夷図」(『新地図帖』より)
   [アムステルダム 1658年] 銅版筆彩 45.4×54.9cm

10.タヴェルニエ「日本図」(『旅行記集』より)
   [パリ 1679年] 銅版 21.2×31.8cm

11.マレ(マネソン=マレ)「日本図」(『世界誌』第2巻より)
   [パリ 1683年] 銅版筆彩 13.8×9.7cm

12.サンソン「日本図」(『アジア地図帖』より)
   [パリ 1683年] 銅版筆彩 18.5×23.8cm

13.ショイヒツァー「日本図」(ケンペル『日本誌』第2版より)
   [ロンドン 1728年] 銅版 46.0×53.0cm

14.石川流宣「本朝図鑑綱目」
   [江戸 相模屋太兵衛 貞享4年(1687)]  木版筆彩  59.4×131.8cm

15.ティリオン「日本帝国図」(サルモン『世界旅行記』第2巻より)
   [アムステルダム 1734年] 銅版筆彩 24.5×31.7cm

16.ベラン「日本帝国図」(シャルルヴォワ『日本の歴史および地誌』第1巻より)
   [パリ 1736年] 銅版 41.7×53.9cm

17.ル・ルージュ「日本および朝鮮図」(『新携帯地図帖』より)
   [パリ 1748年] 銅版筆彩 20.6×27.5cm

18.ロベール「日本帝国図」(『世界地図帖』より)
   [パリ 1750年(1757年)]  銅版筆彩 48.3×53.6cm

19.エロースミス「日本帝国図」
   [ロンドン 1807年] 銅版筆彩 23.5×39.8cm

20.トムソン「朝鮮および日本図」(『新普遍地図帖』より)
   [エディンバラ 1815年] 銅版筆彩 59.0×61.9cm

21.ウォーカー「日本帝国図」
   [ロンドン 1835年] 銅版筆彩 38.9×31.9cm

22.シーボルト「日本図」(『日本』複製版より)
   [ライデン 1840年] 石版 59.4×79.0cm




解説    

1.ヴァルトゼーミュラー「インドシナ半島と大韃靼図」
(プトレマイオス『世界地理書』より)
[ストラスブルク 1522年頃]  木版  28.8×45.9cm
実際にはプトレマイオスの世界像はインドシナ半島までで終わるが、ヴァルトゼーミュラーは、それにマルコ・ポーロによる韃靼とジパングの情報を追加して描いた。

图:2.ボルドーネ「日本図」(『世界島嶼誌』より)
[ベニス 1528年]  木版  8.4×14.5cm
これはヨーロッパで単独の日本地図として初めて印刷されたものである。この15年後に最初のヨーロッパ人であるポルトガル人が日本にやってくる。

3.ミュンスター「新世界図」(『世界誌』より)
[バーゼル  1552年]  木版  25.5×33.9cm
このミュンスターの地図では、マルコ・ポーロが述べた7448の島々がある日本(Zipangri)は、アジア大陸より北アメリカに近く描かれている。

4.オルテリウス「アジア図」(『地球の舞台』より)
[アントワープ 1570年]  銅版筆彩 37.0×49.4cm
このポルトガルから情報を得て描かれたオルテリウスの地図では、日本は関西を少し越えたところで終わっており、豊後は本州にあり、鹿児島は島として描かれている。日本は直立しているように見えるが、緯度線より東西に横たわっていることがわかる。

5.ファン・ラングレン「東アジア図」(ファン・リンスホーテン『東方案内記』より)
[アムステルダム 1596年] 銅版 38.6×52.6cm
これは、オランダ商人リンスホーテンがポルトガルから情報を得て作成した地図であり、日本はエビ型をして、関東は南に伸び、東北地方はまだ存在していない。

6.テイセラ「日本図」(オルテリウス『地球の舞台』より)
[アントワープ 1595年] 銅版筆彩 35.4×48.2cm
この図はポルトガル人地図製作者ルイス・テイセラによるものであり、当時最新の日本地図としてオルテリウスの地図帳に採用された。日本の「行基図」(7)を基にしており、本州・九州・四国がほぼ正確な対比で描かれている。この地図をもって西洋の日本地図の新時代が始まったといわれる。

7.行基「大日本国図」(洞院公賢編『新版拾介抄』より)
[京都 風月荘左衛門 江戸時代前期(17世紀後期)] 木版 21.7×35.6cm
江戸時代初期より以前の日本図は「行基図」あるいは「行基式日本図」とよばれ、日本全体の輪郭が丸みを帯びた線で表現され、奥羽地方が大きくふくらんだ形で描かれていることや、日本が東西に細長く描画されていることなどがその特色としてあげられる。本図は、6テイセラ「日本図」の基になった地図の系統をひくものである。

图:8.ホンディウス「日本図」(『新地図帖』より)
[アムステルダム 1606年]  
銅版筆彩 34.1×44.4cm 
この図は、6テイセラ「日本図」に拠って描かれたものである。

图:9.ヤンソン「日本および蝦夷図」(『新地図帖』より)
[アムステルダム 1658年] 
銅版筆彩 45.4×54.9cm
この地図には、オランダ人フリースが1643年におこなった蝦夷と千島列島への探検の成果があらわされている。しかし、フリースが千島列島や樺太を蝦夷の一部と考えたため、この後 150年間、ヨーロッパの地図上で、蝦夷は実際よりずっと大きいものとして描かれた。

10.タヴェルニエ「日本図」(『旅行記集』より)
[パリ 1679年] 銅版 21.2×31.8cm
宝石商タヴェルニエ自身は、中国までしか行っていないが、バタヴィアで収集した情報をもとに日本図を描いている。日本の形については、過去のカトリック派の手本を採用しており、東日本の方が西日本より目立って大きい。本州の形は全体として少し不恰好な感じである。

11.マレ(マネソン=マレ)「日本図」(『世界誌』第2巻より)
[パリ 1683年] 銅版筆彩 13.8×9.7cm
この図は、9ヤンソン「日本および蝦夷図」同様、関西と関東は西から東へと伸びており、また、後の13ショイヒツァー「日本図」のように東北地方は直角に北をむいており、他には見られない独自の型をもっている。四国および九州は非常に簡略化されてきている。

图:12.サンソン「日本図」(『アジア地図帖』より)
[パリ 1683年]
銅版筆彩 18.5×23.8cm
この図は、9ヤンソン「日本および蝦夷図」に比べて本州が少し伸びて描かれ、蝦夷地に関してはフリースの発見はまるで無視されている。本州の南東にある小さな島々は9ヤンソン「日本および蝦夷図」では全て房総半島の南にあったが、サンソンは房総半島のまわりに置いている。        

13.ショイヒツァー「日本図」(ケンペル『日本誌』第2版より)
[ロンドン 1728年] 銅版 46.0×53.0cm
この図は、長崎の出島商館医ケンペルが日本で出た日本図(14)を基に作成したもので、ショイヒツァーによって出版された。東北地方は北に向いているが、ずんぐりした形になっている。この図はその後、類図を多く生み、ヨーロッパで流布した日本像の一つである。

14.石川流宣「本朝図鑑綱目」
[江戸 相模屋太兵衛 貞享4年(1687)]  木版筆彩  59.4×131.8cm
ケンペルが日本からヨーロッパへ持ち帰った四つの日本の木版地図の一つ。ケンペル死後、ショイヒツァーはこの地図を手本とし、松前を島として描き、能登半島や四国の形、諸国名の漢字表記、海岸線の形成などに役立てた。

15.ティリオン「日本帝国図」(サルモン『世界旅行記』第2巻より)
[アムステルダム 1734年] 銅版筆彩 24.5×31.7cm
この図は、13ショイヒツァー「日本図」を手本として描かれたものである。しかし、ティリオンは能登半島の北に「蝦夷または蝦夷が島またはカムチャッカ」の一部を示した。

16.ベラン「日本帝国図」(シャルルヴォワ『日本の歴史および地誌』第1巻より)
[パリ 1736年] 銅版 41.7×53.9cm
この図は、13ショイヒツァー「日本図」を手本としたものであるが、作者ベランはいくつかの修正をおこなった。すなわち、西日本はわずかに南西から北東方向に向き、能登半島は西方向に傾いている。ベランの地図はこれ以降18世紀いっぱい大きな影響力を持ち続けた。

图:17.ル・ルージュ「日本および朝鮮図」 (『新携地図帖』より)
[パリ 1748年]銅版筆彩20.6×27.5cm
ル・ルージュの日本図は全体としてほっそりとしており、南西から北東に伸びる。ル・ルージュは、13ショイヒツァー「日本図」から九州・四国の形と島根・能登・房総および紀伊半島を取り入れた。

18.ロベール「日本帝国図」(『世界地図帖』より)
[パリ 1750年(1757年)]  銅版筆彩 48.3×53.6cm
ロベールの地図は、陸奥湾を囲む津軽および下北半島の形をはっきりと描き、架空の松前島は省かれている。この形は19世紀に入っても影響を及ぼしていく。

19.エロースミス「日本帝国図」
[ロンドン 1807年] 銅版筆彩 23.5×39.8cm
この図は、エロースミスが1790年版のセイヤー「日本図」に従って描いたものである。なお、セイヤー「日本図」は、18ロベール「日本帝国図」をもとにして、13ショイヒツァー「日本図」の情報を細部に盛り込んだものであった。

20.トムソン「朝鮮および日本図」(『新普遍地図帖』より)
[エディンバラ 1815年] 銅版筆彩 59.0×61.9cm
この図は、2年前に作成されたジョーンズ「日本、朝鮮および韃靼図」に類似するものである。ジョーンズの地図は、1796-97年のブロートンや1805年のクルーゼンシュテルンの日本近海航行による発見の報告書に付けられた地図の影響がみられる。しかし、このトムソンの地図では、本州の海岸線や九州・四国・淡路島がずっと正確になっている。

21.ウォーカー「日本帝国図」
[ロンドン 1835年] 銅版筆彩 38.9×31.9cm
ウォーカーの地図は、ジョーンズ「日本、朝鮮および韃靼図」と20トムソン「朝鮮および日本図」の改良部分を結びつけ、さらに鹿児島湾の桜島の形など若干改良を加えたものとなっている。 

22.シーボルト「日本図」(『日本』複製版より)
[ライデン 1840年] 石版 59.4×79.0cm
長崎の出島商館医シーボルトは、1826年、江戸で高橋景保より近代的測量に基づいて作成されたばかりの日本地図を入手した。シーボルトは日本側の取り調べにもかかわらずこの地図をヨーロッパに持ち帰り1840年1枚ものの地図として出版した。この出版により、日本近代の地図学の基礎が置かれたといえる。



参考文献          

・松本賢一編著『欧州古版日本地図集』十一組出版部、1943年。
・神戸市立博物館編『南波松太郎氏収集 古地図の世界』神戸健康教育公社、1983年。
・神戸市立博物館編『秋岡古地図コレクション名品展』神戸スポーツ教育公社、1989年。
・社団法人OAG・ドイツ東洋文化研究協会編集・発行『西洋人の描いた日本地図?ジパング からシーボルトまで 図録』1993年。
・神戸市立博物館編『古地図コレクション?神戸市立博物館?』神戸スポーツ教育公社、1994  年。
・鶴見大学図書館編集・発行『西洋古版日本地図』特定テーマ別蔵書目録集成11、1997年。

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台灣獵戶人 发表于 2015-6-17 09:45:03 | 显示全部楼层
本帖最后由 台灣獵戶人 于 2015-7-2 20:26 编辑

夷岛或称为虾夷地,曾居住着阿伊努族人(也称虾夷人)。

日本
江户时代的日本地图上并没有涵盖于北海道(虾夷岛)。
明治时代 (1868 年 ---1912年),中国清政府晚期内外夹攻国力衰弱,日本人趁势开始大量移居北海道。


中国汉朝时期,北海道属于辽东诸郡管辖;
中国唐朝时期,北海道属于安东都护府管辖;
中国明朝时期,北海道属于奴儿干都司管辖。

北海道土著虾夷人曾在东晋南朝时向中国政府朝贡,并接受南朝的册封。
中国北魏时期曾一度派人前往现在的北海道和库叶岛一带索要鲸油。敦煌文献中明确记载着北海道原著民虾夷人内附唐朝的事实。

中国领土虾夷岛(北海道)在明朝衰落时被日本趁机强行吞并。



备注:
日本的各地大名(诸侯)为了扩大领地而进攻“”中国藩属虾夷“”而灭绝。
(现在还有一部分人自称是虾夷后裔)期盼着虾夷复国驱逐日本出北海道的法律依据1943年 《开罗宣言》明文规定“日本其他日本以武力或贪欲所攫取之土地,亦务将日本驱逐出境”。
虾夷地(北海道)由日本在明治维新时期用武力非法侵略霸占并入日本。
《开罗宣言》规定的条款必须得到彻底执行:即必须驱逐日本在虾夷和琉球的非法势力。 我们必须高举反殖民主义和帝国主义的大旗,恢复虾夷国,恢复琉球国。

《开罗宣言》全文 罗斯福总统、蒋委员长、邱吉尔首相、偕同各该国军事与外交顾问人员,在北非举行会议,业已完毕,兹发表概括之声明如下:
三国军事方面人员关于今后对日作战计划,已获得一致意见,我三大盟国决心以不松弛之压力从海陆空各方面加诸残暴之敌人,此项压力已经在增长之中。我三大盟国此次进行战争之目的,在于制止及惩罚日本之侵略,三国决不为自己图利,亦无拓展领土之意思。三国之宗旨,在剥夺日本自从一九一四年第一次世界大战开始后在太平洋上所夺得或占领之一切岛屿;在使日本所窃取于中国之领土,例如东北四省(2)、台湾、澎湖群岛等,归还中华民国;其他日本以武力或贪欲所攫取之土地,亦务将日本驱逐出境;我三大盟国稔知朝鲜人民所受之奴隶待遇,决定在相当时期,使朝鲜自由与独立。根据以上所认定之各项目标,并与其他对日作战之联合国(3)目标相一致,我三大盟国将坚忍进行其重大而长期之战争,以获得日本之无条件投降。
注:
1.1943年12月3日重庆《新华日报》。此即著名的《开罗宣言》,美国东部战争时间1943年12月1日晚7时50分于华盛顿发表(中译本于重庆时间12月2日公布)。
2.指黑龙江、吉林、辽宁和热河,即伪满洲国。
3.即“联合国家”,是当时国内对反法西斯同盟国的习惯称呼。 虾夷虾夷 北海道的前世今生 北海道不是日本的固有领土。 北海道同琉球一样,是被日本在明治维新时期侵略霸占而来。



备注:
1859年(清 咸丰九年)前后3年间内中国清政府国力势微,日本趁势派”松浦武四郎”多次假借进行贸易理由往虾夷岛绘制多达26张虾夷岛各式地图,而其中以“东西虾夷山川绘图取调图”后,而后日本进而大胆窃占虾夷岛,成立虾夷岛开拓使团(如日本于前民国时期的东北满洲开拓使团)并聘请松浦武四郎为开拓使团成员。

高举反日本法西斯殖民主义的正义大旗,坚决支持虾夷国【北海道】脱离日本殖民进行复国。

北海道旧称“虾夷”,虾夷人才是整个群岛的真正原住民族,他们从史前时期就生活在整个群岛。

倭人(日人自称和人)才是纯粹的外来民族,正如日本的神话传说证实他们是从天上掉下来的,没根没底,没有来由。

日本明治维新(1860-1880年间)国力渐强,趁着中国清政府内外交迫【内有太平天国作乱,外有英俄在新疆引起的骚乱】日本窃占虾夷岛改称虾夷地,后又改北海道,居住“阿伊努族人”。
16世纪末,松前氏(自日本“本州岛”)渡海(到了中国属国“”虾夷“”)私自圈地建造了福山城,占领了土地。后俄罗斯人南下,出于国防需要,开展了对北海道、千岛、萨哈林岛等地的探险活动,不久北海道就成为日本幕府。


1868年(清同治七年、明治元年),日本明治新政府决定在虾夷设置箱馆裁判所,随即把名称改为箱馆府。
1869年(清同治八年),日本私自宣布将虾夷地改称北海道,设置11国86郡(地理分区)。
同年7月设置北海道开拓使(箱馆府因此废除)之后,北海道的开拓正式进行。

1882年(清光绪八年),日本未经中国清政府签署割让协议,擅自片面(废除中国藩属虾夷国,转而设置日本3个县)废止开拓使,设置函馆,札幌,根室三县取代开拓使。
1883年,中法战争始,于1885年(清光绪十一年)结束。
1886年,代替3县设置北海道厅。


由于日本明治政府的殖民政策,鼓励许多日本人从内地的各地移住,开拓的热潮涌入了道内各地。 北海道名称来历 在1869年,明治政府要求为“虾夷地”取新的名称时,日本探险家“”松浦武四郎“”以北方的“北”(きた)、“カイナー”(阿伊努族对当地的称呼)的“カイ”,以及日本对领土常使用的“道”(どう),合并为“きたかいどう”,翻成汉字为“北加伊道”;最后并获得采用,但在考量配合律令制时代的五畿七道的“东海道”、“南海道”、“西海道”,因此转为“北海道”(ほっかいどう)。



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台灣獵戶人 发表于 2015-6-19 21:59:49 | 显示全部楼层
边境牧羊的猫 发表于 2014-11-6 08:23

日本未经虾夷国的原宗主国的中国历届政府签署割让协议“”虾夷岛“”,即使将虾夷岛改名为北海道,日本掩耳盗铃的”废虾夷国设置北海道厅”至今为止不领有该岛主权。

日本片面废除琉球国/台湾民主国,从而改置日本国冲绳县/台湾总督府,实属违反国际法
http://bbs.liuqiu-china.com/forum.php?mod=viewthread&tid=36644

1879年,日本“”废琉置县“”窃占殖民琉球列岛于国际法无效,理应1945年战后给予中国藩属国“琉球中山国”复国。
日本以军警武装单方面未经琉球宗主国之中国政府签署同意割让或放弃琉球列岛宗主权,日本强行“”废除中国藩属国琉球中山国改名并置日本国冲绳县“”于国际法无效。

1895年,日本废除中国属国“”台湾民主国“,并改设日本国“”台湾总督府“”,从而占领殖民台湾岛于国际法无效,理应1945年战后给予中国属国“台湾民主国”复国。
日本以军事武装战胜中国,逼迫清政府签订中日马关条约后放弃(1)朝鲜半岛宗主权,取得(2)台湾澎湖辽东等地,(3)单方面废除中国属国“”台湾民主国“并改设日本国“”台湾总督府“”于国际法无效。

国际道德与国际法的取舍
http://bbs.liuqiu-china.com/forum.php?mod=viewthread&tid=36346

遵循中国中央政府依法治国,依法办事框架内。
按照国际法则与联合国宪章解释。

割让是指一国将其对国家领土的主权移转于另一国。
割让一般通过“”双边条约“”作出安排。
割让分强制性割让和非强制性割让两种。

“”强制性“”割让是指一国通过使用武力以签订和约的形式迫使他国将其领土移转给自己。这种割让通常是战争或战争胁迫的结果。通过武力缔结割让条约的做法目前已被摈弃。

(甲)根据《维也纳条约法公约》第52条,违反《联合国宪章》所载的国际法原则,通过使用武力或武力威胁而“缔结的条约”是无效的。

(乙)1969年《条约法公约》第51条规定,缔约一方同意受条约约束的表示”是通过对其代表实施强迫“而取得的,”其同意的表示应无任何法律效果“。

(丙)第52条又规定,违反《联合国宪章》中所包括的国际法原则以武力威胁或使用武力而缔结的条约无效。

“”非强制性“”割让一般都是有关国家在平等自愿的基础上通过和平谈判的结果。
类型包括:
(1)赠与;
(2)买卖;
(3)交换。

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台灣獵戶人 发表于 2015-7-22 14:46:46 | 显示全部楼层
战败后的日本当局唯一出路
http://bbs.liuqiu-china.com/foru ... 8725&fromuid=18

1949年10月1日新中国成立后,北京中央政府即代表着中国各族人民,承续前国民政府所批准的各式协议,当然包含了在“1946年1月29日,由盟军最高司令部驻东京总部所公布的第677号行政命令文件”,此份文件是仅有经由”中美英苏”等盟国一致认可授权美军去强制并执行“开罗宣言、雅尔塔会议、波茨坦公告第八条”等协议,“第677号文件”详细而具体的剥夺日本战后领土范围。是故至此,日本掩耳盗铃假借美军驻守琉球群岛威慑中国,日本实为无权派遣自卫队军人及保安警察驻守在琉球群岛。

至今对于二战期间,日本军事侵列中国及其造成中国军民死伤与社会经济财产的等等损失,日本必须有具体行动承担战争犯罪责任,而不是留在口头上“反省”。

简言之:
中国针对日本战后赔偿:
第一,尝付货物。(尊照前国民政府与日本协议,给予日本免除)。
第二,金钱赔款。(新中国以1972年中日友好声明前提,给予日本搁置争议暂缓协议)。

日本必须承担战争犯罪的赔款责任兑现赔款,日本国家领土必须退守本土三岛(九州、本州、四国),永远放弃以军力对外扩张,军事与经济威胁及围困中国,并立即以无条件和平协商归还中国固有国土琉球群岛及钓鱼岛等。
日本唯有这样,才是遵循执行兑现1945年《波茨坦公告》与1946年"盟军最高司令部第677号行政命令规范战后日本领土区域限制"的规定,才是遵守1978年《中日友好条约》1972年《中日联合声明》的原则发展中日友好关系。
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zpode8sxng 该用户已被删除
zpode8sxng 发表于 2015-7-25 19:47:01 | 显示全部楼层

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三星天洋旗 发表于 2015-9-6 12:16:04 | 显示全部楼层

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本帖最后由 台灣獵戶人 于 2015-9-6 14:06 编辑

2015年,台当局主管外交事务部门在其网站介绍札幌(虾夷岛/北海道首府)简介。
“”首页 > 旅外安全资讯 > 各国暨各地区签证、旅游及消费者保护资讯“”。

(北海道/虾夷岛)
中文:札幌
英文:Sapporo

基本资料说明:

(台湾主管外交事务部门)驻札幌办事处辖区为北海道地区。

(虾夷岛)面积77,984餘平方公里,人口551万人。隔著津轻海峡与(日本本州)青森县相邻。札幌为北海道政治经济都市,人口约196万人。气候属於亚寒带湿润气候,冬夏温差大,冬季下雪约从11月至4月。

网路旅游图备注:
台湾民航客机飞北海道(虾夷岛)的航空公司。

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liuqiu1919 发表于 2015-10-9 23:11:28 | 显示全部楼层

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琉球群岛回归,美国在等中国政府来讨价还价
  2010年12月26日,日本多数的政府高官已经从美国那里得到暗示,针对琉球人民要求美军普天间机场搬迁和减少琉球人对基地负担的事情一直保持“零回答”,让日本政府急的团团转。使得日本首相菅直人就普天间机场搬迁事宜向琉球县令所做出的两项许愿“减少对基地的负担和振兴琉球经济”变得苍白无力,让琉球人民心向中华大家庭更加紧迫。

  其实,美国是算准了现在的日本特需要美国的支持了,美国无论需要什么日本都要想方设法答应下来,不然,日本是不拥有琉球(冲绳)主权,没有美国的帮助,随时有可能被合法拥有琉球主权的中国要了回去。琉球自始至终不是日本的领土,是100多年前属于中国管辖下的朝贡国(相当于现在的中国主权下的港澳地区),中国历届政府都没有和日本军国主义签署过卖国条约,从国际法来讲,琉球的主权仍属于中国,日本首相菅直人对此是非常清楚的,也表示过深深的忧虑。
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台灣獵戶人 发表于 2016-1-4 21:11:39 | 显示全部楼层
1944年蒋介石:日本主權不及”蝦夷/北海道“島
http://bbs.liuqiu-china.com/forum.php?mod=viewthread&tid=21527

日本主權不及於”蝦夷/北海道“島的記載,是1945年二次世界大戰日本戰敗前,
在中國相關文獻记载日本 的本部領土只限于:“本州 島”四國 島“九州 島”早在:

日本三島是清末民初時常 用的對日本的別稱指當時日本 的本部領土:“本州 島”四國 島“九州 島”,而且常常和英倫三島相提並 論後來隨著中國清朝腐敗,日俄戰爭後,日本軍國的崛起,日本趁勢竊取原屬於中國的北海道/蝦夷的主權,從而殖民蝦夷島,並掩耳盜鈴更改為北海道殖民地,就不再是日本三島,而是四島了。

清末水師軍事專家“陳倫炯”:”海國聞見錄“ 已見“日本三島”的講法 。

清末外交官員“黃遵憲":1877年,曾隨主官出使日本,寫"日本國志"說:"日本三島之國"有似乎英……兵志。
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台灣獵戶人 发表于 2016-1-21 15:43:11 | 显示全部楼层
北海道(虾夷岛)是日本殖民地在二战中受空袭较少的地区,1945年7月遭到了美军的空袭,室兰、函馆、根室、釧路等都市在空袭中受灾严重。

1945年8月,盟军苏联军队佔领了库页岛南部、千岛群岛地区,造成大量库页岛难民涌入北海道,亦遗留下南千岛群岛领土问题。
苏联史达林曾要求以留萌—釧路为界,佔领北海道北部,但被美国总统杜鲁门拒绝。

10月4日,盟军美军先遣部队登陆函馆,并迅速分驻北海道各地,北海道进入被同盟国军队佔领时期。
北海道美军数量最多时曾有24,000至25,000人。

1954年,盟军美军才全面撤出北海道。

1945年、1946年,有24万原本居住在外国的日本人移民北海道,这也為日后北海道的经济发展提供了大量人手。
在战前,北海道并不适用於府县制,地方自治体系和日本本土其他地区并不相同。
1947年新宪法公佈之后,北海道成为和日本其他都府县完全平等的自治体。

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一片绿叶就是我 发表于 2016-1-21 16:05:31 | 显示全部楼层

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       小日本,必须归还中国的领土各岛屿!
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台灣獵戶人 发表于 2016-4-7 11:51:01 | 显示全部楼层
中国明清两朝五百年拥有对藩属库页岛、虾夷岛、琉球列岛等地区的宗主国权益未曾改变,虽倭国趁中国明末清初朝政更迭短暂数十年间藩属国“”库页岛、虾夷、琉球“”曾经被倭国所侵蚀占据,但随着清朝政权稳定后,对倭国施加软硬兼施压力,如”军事以战逼退威慑”与经济以勘合贸易封锁制裁”等手段,最后上述三个中国的属国又陆续对中国称臣纳贡永世服膺镇守海疆,倭国短期窃据中国宗主国权益终放弃。

清朝
吉林将军,管辖藩属库页虾夷的事务。
闽浙总督,管辖藩属琉球台湾的事务。

注:
1944年蒋介石:日本主权不及”虾夷/北海道“岛
http://bbs.liuqiu-china.com/forum.php?mod=viewthread&tid=21527

日本主权不及於”虾夷/北海道“岛的记载,是1945年二次世界大战日本战败前,
在中国相关文献记载日本 的本部领土只限于:“本州 岛”、四国 岛“、九州 岛”早在:

日本三岛是清末民初时常 用的对日本的别称指当时日本 的本部领土:“本州 岛”四国 岛“九州 岛”,而且常常和英伦三岛相提并 论后来随著中国清朝腐败,日俄战争后,日本军国的崛起,日本趁势窃取原属於中国的北海道/虾夷的主权,从而殖民虾夷岛,并掩耳盗铃更改为北海道殖民地,就不再是日本三岛,而是四岛了。

清末水师军事专家“陈伦炯”:”海国闻见录“ 已见“日本三岛”的讲法 。
清末外交官员“黄遵宪":1877年,曾随主官出使日本,写"日本国志"说:"日本三岛之国"有似乎英……兵志。

注:
中国政府享有对琉球国的“”宗主领土权“”的权益。
琉球国王享有琉球列岛的“”治理管辖权“”的权益。

中国对于琉球的宗主权,从未签署任何放弃、或割让等协议书文件给予它国。虽然日本殖民政府于1879年后单方面废中国藩属琉球国,从而改设置日本冲绳县给予窃占殖民。
但中国历届的政权从未、也未曾正式签署放弃对琉球宗主权领土。
故此,美日两国必须将其窃占的琉球列岛,以和平协商谈判归还与中国,并且必须遵循港澳地区回归模式。

1879年,中国官府"照译"横滨西字报论琉球事
http://bbs.liuqiu-china.com/forum.php?mod=viewthread&tid=18632

清季 申报 台湾纪事 辑录  一十七
光绪五年八月二十日(公历十月初五日——礼拜日)/1879年,
照译 横滨西字报 论 琉球 事
公历一千八百七十四年,日本兴兵至台代球民复仇;中国过问,几动干戈。
日兵至台时,统领"西乡从道"照会"闽浙总督"李内称:『日前台湾生番劫杀备后民四人,后又惨害琉球难民五十二人;特此兴兵复仇』云云。

闽浙总督覆文内称:『琉球,中山故国也;臣事中国巳数百年,极其恭顺。而中国待之,不分畛域。是以本大臣札饬台湾地方官严拿凶犯,秉公办理』云云。

闽浙总督二次照会,更属了然;内称:『球人是我属民,其被生番惨害一事,自应由本大臣饬令地方官查办,不必贵国费心。况贵国之备后四人未遭惨戮,不过被劫』云云。

吾读此文吾,已知"巴君"之谬,然尚未知成立之约何如;
及取阅之,乃知"太久保"与"总理衙门"所定者,曾无一「琉」字、一「球」字,第言「有国当保护己民」而已。
此一役也,中国自始至终皆不直日本所为,谓其"藉端滋扰"。

中国拥有琉球群岛主权一脉相传。中国五百年来的"属国"琉球国,凡其王嗣位,先请朝命,钦命正副使奉敕往封,赐以"驼钮镀金银印",乃称"国王"。
未经册封以前称琉球"世子",权国事;未经中国中央皇室政权承认其政治治理地位受封前,绝对不敢僭越自称为 琉球国 "王"..
过去在中国宗藩制度区域行政管理框架内,虽有"蕃属国"的"国"名称及其"国王"的爵位,但“”它“”不是个完全独立自主国家,“”它“”的外交军事领土变更则是必须受到中国中央皇权监督而有所节制,事故“”它“”与中国中央皇权的政治关系,不是国与国的关系,简而言之,“”它“”藩属国与中国中央皇权是地方自治政府与中央政府的政治从属关系。
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 楼主| 关天培 发表于 2016-4-7 13:12:38 | 显示全部楼层
日本海,韩国、朝鲜称为“东海”是太平洋西部的边缘海,位于日本群岛、朝鲜半岛、俄罗斯远东海岸之间,面积约为100万平方公里。历史上,中国曾是日本海沿岸国,我国曾称之为“东海”、“鲸川之海”等。


早在汉武帝时期,中国东北部的疆域边界西自贝加尔湖,东至鄂霍次克海、白令海峡西岸、库页岛以北地区。唐朝时期,中国在这一地区设置安东都护府,其辖区北起黑龙江流域及鄂霍次克海,南抵渤海及西朝鲜湾,东至朝鲜半岛北部的广大地区。

唐开元年间,在安东都护府辖境以北又设置了渤海都督府,在渤海都督府以北再置黑水都督府。这样,从北部的鞑靼海峡到朝鲜湾,大片的沿海地区都成为唐朝所管辖的区域。

元朝时海疆辽阔,其海岸线东北起自鄂霍次克海,西南至北部湾而不间断,濒临鄂霍次克海、日本海、渤海、黄海、东海、南海诸岛海域。 元朝设立辽阳行省管理东北地区,其下设的开元路辖地“南镇长白之山,北侵鲸川之海”,这个鲸川之海就是今天的日本海。水达达路的辖地在松花江、黑龙江下游,乌苏里江流域直至滨海一带。元朝还专门在黑龙江下游的奴儿干设立了征东招讨司(又称征东元帅府),镇辖黑龙江直达海口的广大地区和库页、虾夷岛。

明代海疆区划大体沿袭元代,在东北地区设置都司(都指挥使司的简称)。明永乐七年(1409年)在元朝征东元帅府的旧地设置了奴儿干都司,治所在黑龙江下游、距海口150公里的特林(今俄罗斯境内),辖地北至外兴安岭,南达图们江上游,东至日本海、库页岛、虾夷岛,西至兀良哈的区域,其境内卫、所数量最多时达到384卫、24所。

清朝在入关之前,早已统一了外东北地区,范围自鄂霍次克海至贝加尔湖。
清朝统一全国后,设立奉天将军、吉林将军、黑龙江将军守卫管理东北地区。
清继明对黑龙江下游地区进行统治, 除了直接编入八旗者外, 便是建立噶珊制度。 这是清朝用以代替明朝卫所制度的一项重要措施。噶珊,满语是“ 乡村” 、“ 屯落”意思的音译,乡村的头人是“ 喀喇达”, 即”姓长“,“ 噶珊达”,即 ”乡长”。 设 “”姓长、乡长“”分户管辖”黑龙江下游地区,”姓长”是”乡长”的上 一级官 员,统于”吉林将军”, 辖以”三姓副都统”的黑龙江下游地区,由姓长、 乡长进行管理的乡村制度,就叫噶珊制度。

沙俄原是一个欧洲国家,与我国并不接壤。从16世纪80年代开始,沙俄越过乌拉尔山向东扩张,在不到60年的时间里,侵占了广大的西伯利亚,势力达到了太平洋西岸,并开始入侵我国黑龙江流域。


1644年,清军入关后,沙俄利用清军无暇北顾之机在尼布楚河与石勒喀河合流处建立了雅克萨城与尼布楚城。1682年,康熙皇帝亲自出巡东北,视察防务,组织反击沙俄入侵的战争。经过两次雅克萨之战,1689年中俄签订了《尼布楚条约》,条约规定中俄以额尔古纳河、格尔必齐河为界,再由格尔必齐河源顺外兴安岭往东至海,岭南属中国,岭北属俄国。
  这就是说,清朝将外兴安岭以北的领土及鄂霍次克海割给了沙俄,至此,沙俄“合法”地占有了整个西伯利亚。而外兴安岭以南、包括库页岛及日本海沿岸的大片土地属中国。
  黑龙江是中国的内河。历史进入19世纪后,大清王朝闭关锁国,国势大为衰落。特别是清朝在进入中原、统一天下后,竟愚蠢地以守护龙兴之地为由,将整个东北地区封锁,禁止汉人移民,以至东北广大地区人烟稀少,只生活着一些原始的少数民族部落。并且清政府在东北实行“虚边政策”,驻军人数少、械劣、饷缺,对东北有多大、边界情况如何一无所知,更少有人迹到达黑龙江口和库页岛。
  1840年英国发动鸦片战争,用炮舰轰开了国门。1847年,沙皇尼古拉一世任命穆拉维约夫为东西伯利亚总督,开始以强力推进侵占中国黑龙江流域的计划。1849年起俄军多次侵入中国黑龙江、松花江、乌苏里江流域,并设立哨所。1853年俄军侵占库页岛。第二次鸦片战争爆发后,沙俄趁火打劫。
  1858年5月28日,沙俄东西伯利亚总督穆拉维约夫以武力威胁和外交讹诈为手段,胁迫黑龙江将军奕山签订中俄《瑷珲条约》。通过该条约,沙俄割占了我国外兴安岭以南、黑龙江以北的60多万平方公里的领土,使黑龙江从一条内河变成了中俄之间的一条界河,并将乌苏里江以东至海、包括海参崴在内的40万平方公里土地划为“中俄共管”。
  《瑷珲条约》签订以后,清政府并没有承认,并且将奕山革职留任,以后又革去御前大臣,调回北京。 1860年7月,沙俄军舰悍然占领海参崴,将该地改名为符拉迪沃斯托克(意为“控制东方”),实现了对乌苏里江以东的实际占领。
  同年8月英法等八国联军占领天津,9月咸丰皇帝逃离北京至热河,10月八国联军攻占北京、火烧圆明园。沙俄借机“调停”,并以“调停有功”的名义,加以武力威胁,迫使清政府于11月14日签订《中俄北京条约》(又名《中俄北京续增条约》),不仅强迫清政府承认《瑷珲条约》有效,还把该条约中关于乌苏里江以东至海包括海参崴在内的40万平方公里的 “中俄共管”之地“划归”俄国!
  从此,中国沿日本海地区的所有领土都全部丧失了,仅余从图们江进出日本海的权利。本为我国领海的东海彻底失去,变成现在的日本海。


日本殖民地”北海道”(虾夷),
在中国历史上
汉朝时属于”辽东诸郡”管辖、
唐朝时属于”安东都护府”管辖、
明朝时属于”奴儿干都司”管辖、
清朝时属于”吉林将军的三姓副都统”管辖。

北海道原土著虾夷人曾在中国东晋南朝时向中国政府朝贡,并接受南朝的册封。北魏曾一度派人前往北海道和库叶岛索要鲸油。北海道,南北宽420公里,东西长540公里。面积7.8万平方公里。 西临日本海,南濒太平洋,东北滨鄂霍次克海;西南以津轻海峡与本州毗邻,北隔拉彼鲁兹海峡(宗谷海峡)同萨哈林岛(库页岛)相望,为扼控两峡的战略要地.敦煌文献中明确记载着北海道原著民虾夷人内附唐朝的事实。

中国领土虾夷岛(北海道)在明朝衰落时被日本趁机强行吞并。冲绳也曾是中国的附属国啊,大家都知道其实冲绳(琉球列岛)是属于我国领土琉球群岛,现主要说北海道是在明朝末年,随着朝廷势力衰微,日本才开始侵占中国虾夷岛的.当时日本当局只控制着京都附近很小的地方,现在日本领土上居住的居民大部分都不是大和族,很类似中国的春秋时代.尽管天皇自称历史久远,但实际上"日本"一直以来都是一个领土狭小,势力薄弱的松散国家,直到列强占领,消灭了很多原有势力和它们实际建立的国家,当时的日本才借机实现了集权,并开始大量侵占别国领土,灭亡其他民族,形成了现在的日本.以前被称为虾夷地,曾居住着阿伊努族人。

16世纪末、现青森县的松前氏渡海建造了福山城,占领了这块土地。进入江户时代后,俄罗斯人南下掠夺,出于长期霸占侵略果实需要,开展了对北海道、千岛、萨哈林岛等地的探险活动,不久北海道就成为幕府的直辖地。
1869年、更名为北海道,开始了正式的殖民。南北宽420公里,东西长 540公里。面积7.8万平方公里。人口554万(1981)。西临日本海,南濒太平洋,东北滨鄂霍次克海;西南以津轻海峡与本州毗邻,北隔拉彼鲁兹海峡(宗谷海峡)同中国库页岛相望,为扼控两峡的战略要地,日本北部边防前哨,有“日本北门锁钥”之称。北海道岛古称虾夷岛,原住阿伊努人。12世纪初,日本人开始进入。
1807年,日本幕府控制全岛,设开拓使。
1869年,置北海道,改现名。日本殖民者单方面未经虾夷的宗主国(中国政府)签署割让、放弃对虾夷的主权权益,日本殖民者单方面将虾夷改称北海道,设置11国86郡(地理分区)。同年7月,设置北海道开拓使(箱馆府因此废除)之后,北海道的开拓正式进行。1882年,废止开拓使,设置函馆,札幌,根室三县取代开拓使。
1886年,代替3县设置北海道厅。由於明治政府的政策许多日本人从内地的各地移住,掠夺的热潮涌入了道内各地。
1945年,美军进驻,
1951年,美军擅自结束盟军占领权益,仍有千岁营地和十胜太、稚内的通信设施供美军使用。明治元年(1868年),明治新政府决定在虾夷地设置箱馆裁判所,随即把名称改为箱馆府。

至此我国领土虾夷岛彻底被日本吞并改名北海道,被殖民奴役到现在。

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台灣獵戶人 发表于 2016-4-7 13:33:11 | 显示全部楼层
库页岛、虾夷岛
最早的居民有“”费雅喀、鄂伦春、库叶(虾夷/阿依努)、赫哲、奇勒尔“”等少数民族。
在世界地理发现史上,中国是最早知道库页岛的国家。西汉初年的地理书《山海经》,在《海外东经》篇里就记载了库页岛上的住民是“毛氏”。“有毛人在大海洲上”,这里指的是居住在库页岛上的费雅喀人,即吉烈迷人。在《后汉书》的《东夷列传》中,进一步记载:在北沃沮“海中有女国”。以后的史书也有相同的记载,如元朝的《开元新志》和明朝的《殊域周咨录》都记载居住在库页岛上的吉烈迷人,“人身多毛”,还提到岛上住民“女多男少”的情况。所以,《绂图考》明确指出:“库页岛即古女国,亦名毛人国”。这些记载证明早在两千年以前,中国已经知道库页岛是一个海上的岛屿,并对岛上住民也有了一定的了解。中国也是最早管辖库页岛的国家。至迟从唐朝开始,中国就管辖着包括库面岛在内的黑龙江下游地区。725年,中国唐朝政府在黑龙江下游设黑水军,726年设置黑水州都督府,下辖黑水mojie十六部,其中包括居住在库页岛上的郡利、窟说和莫曳皆等部。公元十世纪中国辽朝的五国部节度使管辖着库页岛。十二世纪时,由金朝政府管辖着吉烈迷人居住的库页岛和黑龙江口一带。《金史·地理志》记载:“金之壤地封疆,东极吉里迷、兀的改诸野人之境。”在库页岛上确曾发现过金代遣址,在岛北部西海岸的亚历山大罗夫斯克有金代古城址一处;在岛的南端,又有一处当地居民称之为“卡拉霍通”的金代古城址。(女真语“霍通”即“城”。)十三世纪时,元朝政府管辖着库页岛,在黑龙江口的奴儿干地万设东征元帅府,从1263到1308年甩兵库页岛,招抚骨嵬等部。以后,岛上居民每年向元朝政府交纳毛皮税,以海东青(一种鹰)、貂鼠、水獭、海豹皮为贡赋。 公元十五世纪,明朝政府设奴儿干都指挥使司管理黑龙江、乌苏里江流域,其中包括库页岛,并在岛上设置了卫、所。1412年,明朝政府在库页岛北部近海处设立囊哈尔卫,在中部波罗河流域设波萝河卫,东部弩烈河流域设兀烈河卫等。 1616年以后,库页岛归清朝政府管辖。1715年以前,库页岛归宁古塔(宁安)副都统管理,以后划归三姓(依兰)副都统管理。岛上居民每年到黑龙江下游的普禄乡向清政府交纳貂皮。库页岛这个地名因居在岛上的民族而得名。唐朝写作“窟说”、“莫曳皆”、元朝写作“骨嵬”,明朝写作“苦兀”或“苦夷”,清朝写作“库叶”、“库野”或“库页”,其实都是库页的音转。库页岛的名称就由此而来。 沙俄把库页岛说成1849年涅维尔斯科伊“重大的地理发现”,显然是完全不符合历史事实的。中国比他早一千多年就发现并管辖着库页岛了。至1853,俄国用武力非法占领库页岛,才使这个岛屿脱离了中国的版图,为俄国所吞并。随后日本经过明治政府维新后,国势渐强与沙俄军事化争取虾夷库页领土。(犹如俄日近代在中国东北领土火拼)。
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台灣獵戶人 发表于 2016-4-7 16:27:13 | 显示全部楼层
清代黑龙江下游地区的”噶珊制度”与”虾夷锦”
文:杨场、徐
二次編修:猎户人


清代黑龙江下游地区的”噶珊制度”与”虾夷锦”
http://bbs.liuqiu-china.com/foru ... hread&tid=56560

清代用以“”噶珊制度“”代替明代“”卫所制度“”,是对黑龙江下游包括库页岛进行管辖的一项重要措施。 “”噶珊制度“”的建立,实行“”乌林(绫)制朝贡与赏赐“”,促进了“”山旦交易“”的发展,形成了“”虾夷锦文化“”现象, 加强了中国与库页岛与虾夷岛等三地人民的传统友谊。

今笔者不揣谱陋,仅就管见草成此篇,以期对清代东北边疆的建置,经济发展边境贸易,文化交流的研究能有所裨益。清继明对黑龙江下游地区进行统治, 除了直接编入八旗者外, 便是建立噶珊制度。 这是清朝用以代替明朝卫所制度的一项重要措施。

噶珊,满语是“ 乡村” 、“ 屯落”意思的音译,
乡村的头人是“ 喀喇达”, 即”姓长“,
“ 噶珊达”,即 ”乡长”。

设 “”姓长、乡长“”分户管辖”黑龙江下游地区,”姓长”是”乡长”的上 一级官 员,统于”吉林将军”, 辖以”三姓副都统”的黑龙江下游地区,由姓长、 乡长进行管理的乡村制度,就 叫噶珊制 度。

据不完全统计, 仅《吉林通志》卷十七记载,黑龙江下游从伯力往下设立的”噶珊”有:
喜站噶珊(明喜申卫址)、
伊尔库鲁噶珊(明亦儿古里卫址) 、
穆苏噶珊(明马失卫址)、
敦敦庄噶珊(明镇真河卫址)、
格根噶珊(明盖干卫址)、
绰拉剔噶珊(明者帖列山卫址)、
萨尔布噶珊(明撤儿忽卫址) 、
札里噶珊(明扎岭卫址)、
奇集噶珊(明钦真卫址)、
瞻噶珊(明者屯卫址) 、
莽阿禅噶珊(明满径卫址),等等。

”噶珊制度”是清代地方行政机构,而”卫所制度“”是明代”地方军政合一“机 构。

噶珊制度,是明代卫所制度的继承和发展,它 们都是 明清两 代地方组 织。
噶珊里组织结构除了“”头人姓长、乡长“”外, 还有“”穿袍人、白丁(白人)“” 。

”穿袍人”:地位在普通居民之上, 满文档案叫作子弟,《皇清通典》等书亦叫作”子弟”,他们是姓长、乡长的子弟,虽身无官职,但享有较高的社会地位, 并且有可能成为姓长、或乡长职务的继承人。
清廷为使”姓长、乡长”在职务和职权上有所凭证, 都由官给”顶戴”文凭
此外,还发给他们“ 满文札付” ,作为贡貂时证明其身份地位的证据,并作为噶珊头目的“喀喇达(姓长)” 、“ 噶珊达(乡长)” 职权范围很广, 除了管理本噶珊户口, 处理噶珊内不法不平诸事外, 还有一项主要任务,那就是催纳贡物,定期向清朝”缴纳赋税”。




二、
有清一代,对黑龙江下游地区实行噶珊制度, 由姓长、乡长按照规定以时朝贡貂皮。

据<柳边纪略 >记载:
早期是三年一贡。 为了加强对东北亚土著(原住民)管理,清康熙五十三年(1814) ,在”三姓”增设”协领衙门”,并对贡赏制度实行一次改革,“乌拉江(黑龙江)口居住的“”库页“”等五 百 户,则每岁(年巡)遣”章京”等官,赴”宁古塔”境外三千余里之”普禄乡”等地方,令其以六月会议(注9)内,由三年一贡改为一年一贡。贡貂数额,初期定为“ 人贡貂皮一 张” ,后改为基本为两张。
贡赏地点也有变化,或是北京、盛京、宁古塔、三姓、黑龙江下游各木城。
”木城”是设在”噶珊”附近的”临时衙署”,先后有”普禄乡、奇集、德楞德勒恩、台伦 、敦敦庄”诸地。

黑龙江下游每年在各”木城(临时衙署)”收赋颁赏的时间,大约从“ 六月中旬” 开始, 一直到中秋才结束。
所谓”赏乌林”木城,即是用圆木建成的二、三十米见方的木城,分内外两层,内城为”赏乌林”官署所在外层为交易场所。
黑龙江下游土著(原住民)民族,按规定向清皇朝贡貂,并得到相应的赏赐品,称之为“ 赏乌林” 、或“ 赏乌凌” 、 “ 赏乌绩” 。
“”乌林“”,满语音译,意译为“”财帛“”。

因此说赏乌林,就是赏赐财帛。 (族人的)贡貂、(官府的)赏乌林是 同 时进 行

清皇朝赏给贡貂者的物品,则是相当可观。
据“”三姓副都统衙门“”档案记载:
清雍正十二年(1734) ,赏给”库页费雅喀人”等乌林(财帛),则例计开:
”姓长” ,无扇肩朝衣所需”蟒”缎各一匹
、 白绢各四丈五尺、妆缎各一尺八寸、红绢各二尺五寸、家机布各三尺一寸、长棉袄及裤子所需毛青布各一匹、 白布各四丈、 棉花各二十六两,附带赏给零散毛青布各四匹、 汗巾高丽布各一丈、每块三尺之绢里子各二块、帽、带、靴、袜折合毛青布各二匹、梳子及蓖子各一、 针各三十、包头各一、带子各三副、棉线各三络、棉缝线各四钱、钮子各八、桐油匣子各一。

赏给”乡长”,朝衣所需”彭”缎各二丈三尺五寸、 白绢各四丈五尺、妆缎各一尺八寸、 红绢二尺五寸、 家机布各三尺一寸、长棉袄及裤子所需毛青布各一匹、白布各四丈、 棉花各二十六两,附带赏给零散毛青布各三匹、汗巾高丽布各一丈、每块三尺之绢里子各二块、帽、 带、靴、袜折合毛青布各二匹、梳子及蓖子各一、针各三十、包头各一、带子各三副、棉线各三结、棉缝线各四钱,钮子各八。

赏给”子弟”,缎袍所需”彭”缎各二丈、白绢各四丈、妆缎各一尺三寸、 红绢各二尺五寸、长棉袄及裤子所需毛青布各一匹、白布各四丈、 棉花各二十六两,附带赏给零散毛青布各三匹、 汗巾高丽布各一丈、每块三尺之绢里子各二块、帽、 带、靴、袜折合毛青布各二匹、梳子及蓖子各一、针各三十、包头各一、带子各三副、棉线各三给、棉缝线各四钱、钮子各八。

赏给”白人”,”袍子”所需毛青布各二匹、高丽布各三丈 五尺、妆缎各一尺三寸、红绢各二尺五寸、长棉袄及裤子所需毛青布各一匹、白布各四丈、棉花各二十六两,附带赏给零散毛青布各二匹、汗巾高丽布各五尺、每块三尺之绢里子各二块、帽、带、靴折合毛青布各二匹, 梳子及蓖子各一、针各三十、包头各一、带子各三副、棉线各三络、棉缝线各六钱、钮子各八。

通过上面满文档案记载, 可想当时”赏乌林”的盛况。
赏品种类多, 数量大。 且可看出清廷颁赏有严格等级差别规定,姓长、 乡长、穿袍人、白丁人,所赏赐的物 品无 论是质量上, 还是数量上都不一样。
同时, 将上述满文档案中所记载清雍正十二年(1734),赏乌林,则例规定库页费雅克人”姓长、 乡长、穿袍人、白丁人“”所受赏物的品种和数量与清乾隆四十二年(1777),赏乌林则例规定库页-费雅喀人姓 长、乡长、穿袍人、白丁人所受赏物的品种和数量比较基本相同。
这充分说明颁赏乌林,相沿已久形成制度,一直沿袭下来。


黑龙江下游各民族须以按时朝贡,如因特殊情况未能进贡,其后必须补纳,那才能得到清廷补赏。
例如,清乾隆十八年(1753),库页-费雅喀人-舒隆乌-鲁姓、陶姓凡五十三户,因“ 众人感染疾病” , “ 而未 能前往约定之”奇集噶珊”进贡貂皮” 。该二姓在乾隆十九年(1754)前来进贡,除贡当年应纳貂皮外,还愿意补贡所欠乾隆十八年貂皮。 既已补贡,据清廷规定,理应补赏。
该规定即“ 查得乾隆十六年(1751)二月,准将军衙门咨开,准兵咨开,内阁抄出大学士领侍卫内大臣忠勇公傅”等议复奏疏内称,库页-费雅喀人等所居之地与”宁古塔、 三姓“相距甚远,且俱经”河、 海、山、林”,难免因路途阻滞获得貂皮,而不能如期前来、或因众人染病不能前来。

若当年出有因,而于来年补贡者,则仍照先例补给应赏之物。
若有两年以上欠贡者,则停止进贡所欠貂皮,亦停止补赏。
惟当年应贡之貂皮交纳后,仍照例予以赏赐等语” , “ 理应照奏准之例,予以补赏”。
可见清代补贡制度,有严格规定,若届期不至者,其前所欠之貂皮,仍然要纳贡,也照例赏乌林。
若欠缺二年以上,则停其补贡,亦停其补赏。
每年贡貂领赏,绝大部分都能如期前来贡貂,若因故迟误,也都应在次年补交。
然后将贡貂皮装箱加封,连同清册呈送北京,同时领回下年度应赏之乌林,清代贡赏制度完备。贡貂者所得到的赏品种类多、丰富,除了满文老档有详细记载外,其它古籍文献也有详细记载。
如,清康熙年间《柳边纪略》载有贡貂者得到的赏品有“ 衣服、缎绸、布缕、带帕、棉花、绿斜皮线、蓖、扇等物,’。

道光年间《吉林外纪》记载赏品有“ 蟒袍、妆缎、布匹诸物” , 可见主要为丝织品和布匹等。

赏品大部分是由京师采买备办,然后解往盛京(沈阳) 库贮待用。
颁赏届期,由盛京“ 车载马运,络绎于途” ,运往”三姓副都统衙门”,再派出”赏乌林官”押送到黑龙江下游“”木城“”地船舟云集,帐篷林立。
在贡赏贸易的日子里,如同(赶集)佳节盛会十分热闹。 日本殖民者文献《北虾夷图说》则有生动的记载。





清代内地丝绸诸物,经由东北亚古道运往黑龙江下游”木城”,由”赏乌林官”颁赏给”噶珊”贡貂者。
根据历史惯例,周边少数民族进贡,必有所赏,而且赏多于贡。
这种贡赏贸易,起源很早直到了明清两代又得到了进 一步发展。

赏乌林官员在”木城”居留期间,除了收贡颁赏外,另一个重要内容是组织各噶珊间大型集市贸易,同时赏乌林官员也为清廷收购一些额外的貂皮。 “ 每月有几百人集聚于行署中交易” , 如:黑龙江下游德楞木城,每次都聚集五、六百人, 熙熙攘攘热闹非凡。日本殖民者”间宫林藏”在《东鞋纪行》中有具体而生动的叙述。

中国边疆的少数民族得到赏品,最初在各自族群内部交易的,后来演变发展成各民族间进行交易,甚至扩大到与虾夷岛(今:日本殖民地北海道)虾夷族进行交易。
当时,中国边疆库页岛土著(原住民)民族、虾夷岛土著(原住民)民族称”黑龙江下游德楞、奇集”等地少数民族为“ 香旦” ,即”邻人(邻居)”的意思,即是“”鄂伦春、尼夫赫、赫哲“”等土著(原住民)民族的混称,虾夷人则将“ 香旦” 讹为“ 山旦” ,因此把同山旦人进行物品主要是绢织品交易,称之为“ 山旦交易” ,是贡赏交易的延伸, 他们以古老的贸易方式,以物物交换为主要形式进行着。
山旦交易主要场所在“奇集、普禄、德楞”等地。

奇集“ 东逾山岭二十余,即为库页海峡”。
那时库页岛、虾夷岛居民前往黑龙江下游进行山旦交易,一般是不经黑龙江口进入,而是由”克默而湾”即为 ”库页海峡”(今:卡斯特里湾) 登岸,肩扛小船行走20余里陆路,再入”甫里河”到”奇集”地(今:马林斯克),下”黑龙江”过”普禄(今:布拉瓦)” , 经”五如吉站”,直抵”德楞(台伦)”等地进行贸易有时黑龙江下游山旦人(”鄂伦春、尼夫赫、赫哲等族人“”)也会到库页岛南端白主地方,甚至远达日本殖民者向清政府申请开垦租借据点”宗谷村”(实由清政府吉林将军管辖登记后每年按人头缴交纳税。

于是这就形成了,中国开辟了南、北对日本的经贸丝路,“”勘合/山旦-直接贸易、或朝贡转口-间接贸易的经贸活动:
东南方的海路线:“”朝贡贸易体制:中国(闽浙总督管辖)福州-中国藩属琉球转口-九州岛。/勘合贸易体制:泉州-九州“”之外,
东北方的海-陆路线“”贡赏鸟林贸易体制:中国(吉林将军管辖)黑龙江-中国藩属库页、虾夷转口-本州岛。/山旦贸易体制:黑龙江-本州岛””等与日本间的贸易。


中国清廷对于黑龙江下游地区各族的”头人”称臣纳贡永世服膺表态,则是借由中国官府在木城举办的”贡赏鸟林制度”赐于官服袭衣,以示各族”头人在当地为清政府代职镇守边疆正统合法性”。
然而,由于中国清政府尊重边疆虾夷族地方自治,在边防管制宽松下的虾夷族又再跨海与日本本州人进行各式物品交易,由于黑龙江下游的鄂伦春、尼夫赫、赫哲、库页、虾夷等族常于中国官府举办的”赏鸟林”期间所获的中国官服进行交易。
如:虾夷族得到赏鸟林官所赏赐的官袍服饰后,虾夷族再将其获得官袍、锦绸緞绵等布料,私下与日本人交易,从而让日本本州岛人冠以虾夷族,并称为“ 虾夷锦” ,而日本也把通过与中国东北边疆各族人在交易中所获得中国官服布料,统一珍称为”虾夷锦”。
常认为这种高级别丝绸官服是是中国古代龙袍,其实是属于”(四爪龙:王爷)、蟒袍(五爪蟒:王爷)”。

而在山旦交易中也常出现”鄂伦春、尼夫赫、赫哲族等将赏鸟林体制期间所获得赏赐的”绸缎、锦缎、蓝毛青布、高丽布、妆缎、红绢、家机布、白布、棉花、帽子、带子、梳子、包头、棉线,甚至官服袭衣” ,再次与虾夷人进行交易,换取虾夷族的“”水獭、狐、貂等毛皮品“”。


简而言之,中国藩属虾夷族人利用了自身地理位置优越,与日本本州岛相隔“”津轻海峡“”之地利方便,在山旦交易期间,有计划组织的从事收购当时边疆各族在”赏鸟林”所获得中国各种各样服饰布料后、再与日本本州岛人进行转口贸易往来。

由边疆各族的山旦交易结果形成了一种独特的“”虾夷锦文化“”(专门将中国丝绸缎布料转口于日本本州岛)现象。
文化是历史范畴,衣着是文化一个重要层面,在山旦交易中,中国的丝绸袍服是主要交易物品。可见虾夷锦文化,也是中国汉文化传播的结晶。而中华民族汉文化则是当时东北亚区域的主体文化轴心。
中国内地丝织等物品,经冰川古道远达黑龙江下游,通过山旦交易进入中国藩属虾夷岛,从而转口到日本本州岛,而这早在明清年代五百年之前就有之。 远的不说在中国元朝就有了山旦交易。


到了明代又有了发展,据日本古籍《新罗之记录》载,
日本文禄二年(明神宗万历21年/1593),松前藩主蝎琦庆广为了取得德川家康支持,特地跑到当时丰臣秀吉侵略朝鲜的前方基地九州-肥前-名护屋(今:佐贺县镇西盯)拜见德川将军, 并穿上华丽的虾夷锦袍服前往,德川家康见之倍加爱惜。于是庆广当即脱下“ 唐衣(中国明朝蟒袍官服)—虾夷锦”赠予家康,家康大悦,从而庆广在松前地位也得到巩固。
这一历史事实说明了,有明一代“丝绸诸物”从外东北渡海到达北方的藩属虾夷人手里,而日本殖民者于虾夷屯垦据点与虾夷族进行交易,获得了虾夷族人所提供的虾夷锦,随后再带回日本本土内地(本州岛、四国岛)。
十五、十六世纪 ,女真族人用貂皮换取内地江南丝织等物品,不但同库页虾夷各人族进行贸易,也同朝鲜族进行贸易。
明清时期山旦交易得到了发展。

中国丝织等品传到中国藩属虾夷国、甚至转口到了日本“本州、四国”岛,除了历史文献记载外,现仍保存虾夷锦实物更佐证了这一点。今藏于日本(殖民政府) 北海道(虾夷岛)神宫的“ 满洲古衣(中国清朝蟒袍朝服)” 多件,藏于(日本殖民政府)北道(虾夷)开拓(侵列屯垦)纪念馆的“ (四爪)龙袍”蟒袍 、打敷、丝绢等物。
不但日本一些博物馆至今保存着中国官袍朝服诸物,而今位于黑龙江下游俄罗斯的”考穆少林斯库”艺术博物馆也保存完好的中国黄色官袍服。
尤其是近年来,在黑龙江下游民间还发现至今保存完好的中国官袍服。
如:1990年,在黑江下游”布拉巴村”,少数民族奥罗奇人家中发现中国清朝“ 马蹄袖”官袍朝服。
同年,又在黑龙江下游”安米村”那乃人家发现带有花纹给地清朝袍服。
而这都说明中国内地丝织 等织物品已远达黑龙’江下游,甚至通过山旦交易进入中国藩属虾夷人手里, 形成虾夷锦文化现象。


中国藩属虾夷锦文化现象说明了什么?
首先是, 虾夷锦文化现象是中国清朝在黑龙江下游设立”噶珊”体制管理制度,实行“”乌林制“”的结果。 只有建立”噶珊”,实行”乌林制”纳贡颁赏,才能形成“”山旦交易“”的盛况,有了山旦交易, 才会有中国江南丝织品进入中国藩属虾夷(今为日本殖民地北海道), 是山旦交易的产物。因此,虾夷锦文化现象首先说明了中国清政权对黑龙江下游行使有效的行政管辖,乃至于库页岛、虾夷岛。

其二是,虾夷锦文化现象不仅说明了中国清代对黑龙江下游进行有效行政管辖,而且也说明了在意识形态方面也深刻地影响了这一地区。江浙地区丝绸袍服诸物能够远达东北亚黑龙江流域,众所周知衣着方式是文化研究的重要内容,文化是人类一种活 动,而文明属于文化活动的成果、表象,江南的衣着颇受东北亚土著(原住民)民族的关注和欢迎,因此说中华汉文化深刻影响着这一地区,是这一地区的主体文化。

其三是,虾夷锦文化现象也说明中国与虾夷族人友谊源远流长,黑龙江流域下游土著(原住民)民族与虾夷人进行山旦交易,它不仅构通了东北亚各族人民经济往来, 文化交流, 更加强了中国与库页岛、与虾夷岛等区域人民的友谊。


岁月匆匆流光易逝。今夭,虽有清一代已经变得遥远的过去。但我们的先人,披荆斩棘风雪长行,绎传丝绸远输黑龙江下游”奇集、德楞、普禄”,甚至库页、虾夷,无不留下他们的足迹。
虾夷锦文化现象,是联结中原经济、文化与东北亚各族人民的桥梁使千里冰川古道、海岛,显得神奇多姿。繁荣了东北亚地区经济,发展了文化促进与邻国友好交往。虾夷锦光彩,永远彪炳于史册。
奇集噶珊的遗址、德楞的木城、山旦交易、虾夷锦等等,这些翻腾着的历史浪花,无不记录着那些消逝的岁月。上述历史事实,无不说明东北亚地区各族间的经济交往, 文化交流贸易, 是有借鉴意义的。在今夭世界经济正在趋向经济集团化和区域化的时代, 而东北亚地区逐步形成新的区域化的经济文化圈,跨国自由经济区也是有可能的。 事实上,中、日、 俄、朝各国的学术界、 经济界已经提出这一间题,将成为今后这一地区的经济、合作的新课题。




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 楼主| 关天培 发表于 2016-4-15 09:20:46 | 显示全部楼层
清代之行政区,吉林省(吉林将军辖区)

吉林省:
清初为吉林将军辖区。光绪三十三年(1907),建吉林省。省治吉林府。
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吉林巡抚: 
光绪三十三年(1907),改吉林将军为吉林巡抚,兼副都统,仍驻吉林府。
宣统元年(1909),吉林副都统裁,停兼。

吉林民政司:光绪三十三年(1907),设吉林民政司,驻吉林府。
吉林提法司:光绪三十三年(1907),设吉林提法司,驻吉林府。
吉林提学司:光绪三十三年(1905),设吉林提学司,驻吉林府。
吉林度支司:光绪三十三年(1907),设吉林度支司,驻吉林府。
吉林交涉司:光绪三十三年(1907),设吉林交涉司,驻吉林府。

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西南路道:
光绪三十三年(1907),置西路道,驻长春府,领吉林府、长春府;
宣统元年(1909),更名西南路道,所有州县均直属道,增领伊通、濛江二州,农安、长岭、桦甸、磐石、舒兰、德惠、双阳七县。

西北路道:
宣统元年(1909),置西北路道,驻滨江厅,领新城、双城、宾州、五常四府,榆树、滨江二厅,长寿、阿城二县。

东南路道:
宣统元年(1909),置东南路道,驻珲春厅,领延吉、宁安二府,东宁、珲春二厅,敦化、穆陵、额穆、汪清、和龙五县。

东北路道:
宣统元年(1909),置东北路道,驻依兰府,领依兰、临江、密山三府,虎林厅,绥远州,方正、桦川、富锦、饶河四县。

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吉林府:首府。明乌拉等卫;雍正五年(1727),于船厂置永吉州属奉天府。乾隆十二年(1747),改置吉林直隶厅,改属吉林将军;光绪七年末(1882),升府。

长春府:明先属三万卫,后属蒙古科尔沁部。清初属郭尔罗斯前旗。嘉庆五年(1800),于长春堡(新立屯)置长春直隶厅。道光五年(1825),徙治宽城子。光绪十四年(1888),升府。

伊通州:明先属塔山、雅哈河、伊敦、拉克山、发河等卫,后属扈伦族之叶赫部。嘉庆十九年(1814),置伊通河巡司属吉林直隶厅。光绪七年末(1882),改置伊通州,属吉林府。宣统元年(1909),升直隶州。同年,改属西南路道。光绪二十八年,移磨盘山州同驻赫尔苏。

濛江州:明先属鄂尔诨山所,后属长白山讷音部。光绪三十三年末(1908),析吉林极南地于二道江置州。宣统元年(1909),属西南路道。

农安县:明属三万卫;清初属郭尔罗斯前旗。光绪八年(1882),置农安照磨,属长春直隶厅(长春府)。光绪十四年(1888),改置县。宣统元年(1909),改属西南路道。

长岭县:清初属郭尔罗斯前旗。光绪三十三年末(1908),析农安县农家、农齐、农国三区于长岭子置县。宣统元年(1909),属西南路道。

桦甸县:明先法河卫,末属长白山讷音部;清初为禁地。光绪三十三年末(1908),于桦皮甸子置县。光绪三十四年(1908),徙治桦树林子,宣统元年(1909)属西南路道,同年,徙治西官街。

磐石县:明属扈伦族辉发部。清初北境属吉林,南境属奉天围场。光绪八年(1882),设磨盘山巡司属伊通州。光绪十三年(1887),改设州同。光绪二十八年(1902),改置县,属吉林府。宣统元年(1909),属西南路道。

舒兰县:明属阿林卫。宣统元年(1909),于舒兰站置县,属西南路道。宣统二年(1910),徙治朝阳川。

德惠县:清初属郭尔罗斯前旗。宣统二年(1910),析长春府沐德、怀惠二乡于大房身置县,属西南路道。

双阳县:明依尔门、苏完河二卫。宣统二年(1910),析吉林府西境、长春府东境、伊通州北境于苏斡延置县,属西南路道。

新城府:明先属三岔河卫,后属乌拉部。雍正四年末(1927),于伯都讷城置长宁县,属奉天府,乾隆(1736),裁。嘉庆十五年(1810),置伯都讷直隶厅,设同知。光绪二年(1876),徙治孤榆树屯。光绪三十二年(1906),升新城府,复徙治伯都讷城。

双城府:   明拉林河卫。光绪七年末(1882),于双城堡置直隶厅,设理事通判。宣统元年(1909),升府。

宾州府:明费克图河卫。光绪七年末(1882),于苇子沟置直隶厅宣统元年(1909),升府。

五常府:明属摩琳卫。光绪七年末(1882),于五常堡西南欢喜岭置直隶厅。宣统元年(1909),升府。府经历驻山河屯。

榆树厅:清初属伯都讷部。光绪二年(1876),伯都讷直隶厅徙治孤榆树屯。光绪三十二年(1906),升新城府又徙治伯都讷,于旧治另置榆树县,属新城府。宣统元年(1909),升直隶厅。宣统二年(1910),改属西北路道。

滨江厅:光绪三十二(1906),以松花江右滩地于傅家甸(哈尔滨)置直隶厅,设江防同知,兼属吉林、黑龙江两省。宣统元年(1909),割双城府东北境来属,改设抚民同知,专属吉林省。同年,改属西北路道。

长寿县:   明蚂蜒河卫。光绪八年(1882),设烧锅甸子巡司,属宾州直隶厅。光绪二十八年(1902),改置县。宣统二年(1910),改属西北路道。

阿城县:明岳希、河突二卫。宣统元年(1909),于阿勒楚喀城置县,属西北路道。

延吉府:明锡璘、布尔哈通、爱丹三卫。清初为南荒围场。光绪七年(1881),开垦。光绪二十八年(1902),于延吉冈置直隶厅。宣统元年(1909),升府。

宁安府:光绪二十八年(1902),于三岔口置绥芬直隶厅,设抚民同知。宣统元年(1909),升府,徙治宁古塔城。宣统二年(1910),更名。

东宁厅:明率宾江卫。光绪二十八年(1902),置于三岔口置绥芬直隶厅。宣统元年(1909),升府徙治宁古塔城,另置厅,改设通判。同年,属东南路道。

珲春厅:明珲春卫;清初为南荒围场。光绪七年(1881),开垦。宣统元年(1909),于珲春置厅,设同知。同年,属东南路道。

敦化县:明先属建州左卫,后属窝集部赫席赫路。清初为额穆赫索罗堧地。光绪八年(1882),于筑鄂多哩新城,置县,属吉林府。宣统元年(1909),改属东南路道。

穆棱县:明木伦河卫。清初为穆棱路。光绪二十八年(1902),设穆棱河知事,属绥芬直隶厅。宣统元年(1909),改置县。同年,属东南路道。

额穆县:明先为斡朵里、秃屯河二卫;后属窝集部之鄂谟和苏鲁路;宣统元年(1909),于额穆赫索罗置县。同年,属东南路道。

汪清县:明阿布达哩卫。清初为清初库雅拉部钮呼特。宣统元年(1909),于百草沟置县。同年,属东南路道。

和龙县:明属赓金河卫。光绪二十八年(1902),设和龙峪经历,属延吉直隶厅。宣统元年(1909),改置县。同年,属东南路道。

依兰府:   明和屯卫。清初为依兰喀喇。光绪三十一年(1905),于三姓城置依兰府。

临江府:清初黑哲喀喇人居地。光绪初编入三姓副都统。光绪三十一年(1905),于哈拉苏苏置州,属依兰府。宣统元年(1909),升府。

密山府:木伦河卫及松阿察河堧地。清初为瓦尔喀部人居地,属宁古塔副都统。光绪三十三年末(1908),于蜂密山子置府。

虎林厅:宣统元年(1909),析密山府于呢玛河置呢玛厅。同年,属东北路道。宣统二年,更名。

绥远州:清初为使犬部额真喀喇人居地,属三姓副都统。宣统元年(1909),于伊力嘎置州。同年。属东北路道。

方正县:   清初为呼尔哈部人居地,属三姓副都统。光绪三十二年(1906),于松花江北崇古尔库站置大通县,属依兰府。宣统元年(1909),徙治松花江南方正泡,更名,割长寿县东境来属,同年改属东北路道。

桦川县:清初为黑哲喀喇人居地,属三姓副都统。宣统元年(1909),于佳木斯置县。同年,属东北路道。宣统二年(1910),徙治悦来镇。

富锦县:清初为黑哲喀喇人本部。光绪七年(1882),设协领。光绪三十三年(1907),于富克锦设富锦巡司,属临江州。宣统元年(1909),改置县。同年,改属东北路道。

饶河县:明先为尼玛河堧地,后为窝集部诺罗路。清初为瓦尔喀部人居地,属宁古塔副都统。宣统二年(1910),于饶力河置县,属东北路道。

附:
宝清州:宣统元年拟于饶河县西境宝清河西置州。
勃利州:宣统元年拟于依兰府东南倭肯河上游置州。
临湖县:宣统元年拟于密山府东境兴凯湖畔置县。

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吉林将军辖区:
吉林驻防将军:
顺治十年(1653),于设宁古塔昂邦章京二人,均驻宁古塔城(宁安府旧街),析盛京昂邦章京辖区北部为辖区;
康熙元年(1662),裁一人,更名镇守宁古塔等处将军。康熙五年(1666),移驻宁古塔城东南新城(宁安府)。康熙十五年(1676),移驻吉林乌拉城(船厂,吉林府);
乾隆二十二年(1757),更名镇守吉林等处将军(俗称吉林将军);
光绪三十三年(1907),改设吉林巡抚,兼副都统事务。

吉林副都统:   
顺治年间,设宁古塔副都统,驻宁古塔城(宁安府旧街);
康熙五年(1666),移驻宁古塔城新城(宁安府)。康熙十年(1671),移驻吉林乌拉城(吉林府),更名吉林副都统。康熙十五年(1676),复移驻宁古塔城(宁安府);
雍正三年(1725),复设吉林副都统,驻吉林乌拉城(吉林府);
宣统元年(1909),裁,旧地为吉林府、长春府等。

五常堡协领:     
同治八年(1869),设五常堡协领,驻五常堡(五常府五常堡),属吉林副都统。

打牲乌拉协领:
顺治十四年(1657),设打牲乌拉总管,驻打牲乌拉城,属宁古塔昂邦章京,后属吉林副都统;
康熙四十四年(1705),徙治打牲乌拉东新城(吉林府乌拉街);
乾隆五年(1740),移吉林协领来驻,更名打牲乌拉协领;
光绪三十二年(1906),裁打牲乌拉总管。

宁古塔副都统:
顺治年间,设宁古塔副都统,驻宁古塔城(宁安府旧街);
康熙五年(1666),移驻宁古塔城新城(宁安府)。康熙十年(1671),移驻吉林乌拉城(吉林府),更名吉林副都统。康熙十五年(1676),复移驻宁古塔城(宁安府)。
宣统元年(1909),裁,徙绥芬直隶厅升宁安府来治,旧地为宁安府、密山府等。

珲春副都统:
康熙五十三年(1714),设珲春协领,驻珲春城(珲春厅),属宁古塔副都统;
光绪七年(1881),改设珲春副都统;
宣统元年(1909),裁,置珲春直隶厅,旧地为延吉府、珲春厅等。
阿勒楚喀副都统:
雍正三年(1725),设阿勒楚喀协领兼副都统衔,驻阿什河(阿城县),属宁古塔副都统;
乾隆二十一年(1756),改设阿勒楚喀副都统;
宣统元年(1909),裁,置阿城县,旧地为滨江厅、阿城县等。

拉林协领:
乾隆二十七年(1762),设拉林副都统,驻拉林城(双城府境)。乾隆三十四年(1769),改设拉林协领,属阿勒楚喀副都统。

双城堡协领:
嘉庆九年(1904),设委署协领,驻双城堡(双城府),属阿勒楚喀副都统。嘉庆二十三年(1818),改设双城堡协领。

三姓副都统:
康熙五十三年(1714),设三姓协领,驻三姓城(依兰哈喇,依兰府);
雍正九年(1731),改设三姓副都统;
光绪三十一年(1905),裁,旧地为依兰府、临江府等。

富锦协领:
光绪七年(1881),设富锦协领,驻富克锦(富锦县),属三姓副都统。

伯都讷副都统:
康熙三十一年(1692),设伯都讷副都统,驻伯都讷城(那拉洪,新城府);
宣统元年(1909),裁,旧地为新城府等。

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注:
清咸丰八年(1858),中俄《瑷珲条约》割让三姓副都统辖区黑龙江以北与俄国;中俄共管三姓副都统辖区、宁古塔副都统辖区乌苏哩江以东(含库页岛)。

清咸丰十年(1860),中俄《北京条约》割让三姓副都统辖区、宁古塔副都统辖区乌苏哩江以东(含库页岛)与俄国。

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台灣獵戶人 发表于 2016-6-13 06:16:39 | 显示全部楼层
鞑靼、女真、奴儿干、后金、大清等均属中华民族传承
http://bbs.liuqiu-china.com/forum.php?mod=viewthread&tid=56620

1618年~1683年,中国明清两朝皇权轮替以65年大致完成(女真/后金/清朝)。
1589年,女真爱新觉罗部首领”努尔哈赤”统一建州女真,
明万历44年/后金天命元年(1616年),建立后金,
1644年,清兵入关。以明朝為名号的最终政权结束于1683年台湾明郑王朝。
奴尔干,是元朝设置“征东元帅府”的旧址,明朝在这里设“奴尔干都指挥使司卫所制度”也是承元朝旧制。
明万历年间(1573—1620年),奴儿干都指挥使司辖区内增加到卫384、所24、地面7、站7、寨1,通称384卫。

16世纪末至17世纪初,以后金努尔哈赤为首的建州女真,逐渐取代了明朝对黑龙江地区的统治。
其中在东北的女真族也被统称为“”韃靼“”,而又以建州女真最为强大。
明朝收建州女真为藩属,并”册封”:阿哈出 为 建州都指挥使、猛哥帖木儿 为 建州卫左都督。
1619年,努尔哈赤于萨尔滸之战击败明朝”杨镐”指挥的明军、朝鲜、叶赫女真各族联军;随后连佔领瀋阳、辽阳、抚顺等辽东、辽西地区。

明朝对库页岛的管辖: 1412年, 明朝征服苦兀,在库页岛北部近海处设立囊哈儿卫,在中部波罗奈河流域设波罗河卫,东部驽烈河流域设兀烈河卫,隶属于奴尔干都司。朝廷曾经十次派遣太监亦失哈巡视库页岛。1430年 明宣宗派都指挥康旺、王肇舟、佟答敕哈等人 前往 库页岛抚恤军民,这是明朝最后一次巡视库页岛。随着奴尔干都司的撤销,明朝再也没有巡视过库页岛,但依旧保留了岛上的卫所直到努尔哈赤起兵叛乱后彻底失去控制。

1643年,顺治帝即位,多尔袞摄政辅佐。

明崇祯十七年/清顺治元年(1644年)
明清易代時所爆發的入關戰爭,滿清以12万的兵力入關,襲捲整個华北和华南。

清朝趙烈文曾表示:
“国初创业太易,诛戮太重,所以有天下者太巧。天道难知,善恶不相掩,后君之德泽,未足恃也。”
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八重王 发表于 2016-8-12 10:05:03 | 显示全部楼层
国史学家”刘文典”,1944年3月30日、31日,连续两天在《云南日报》发表一万多字的长文《日本败后,我们该怎样对他》写到:
对日不主张割地,他认识到尽管日本曾经侵占了中国许多土地,但这次反法西斯战争是“义战”,是“要维护世界的文明,正义”,因此“战事终了之后,我们只要照我们的古训‘光复旧物’,‘尽返侵地’”,“绝不想索取日本的领土”。再说,“《日本原来自有的区区三岛》,土地本也无多,《他(日本)的本土三岛》,我们纵然一时占领,也无法享有他的土地,治理他的人民”。所以,“论势论理”,中国“都不必要日本割地给我们”。不过,刘文典认为有一个地方必须据理力争,那就是《琉球》。他(刘文典)说:“琉球这个小小的岛屿必然要归中国,这件事千万不可放松”,他希望国民政府和国民都要坚持这一主张,务必把琉球收回来。琉球是一岛国,自古以来与中国就有关系,文化上深受福建、台湾影响。明代时成为中国的藩属,已达五六百年之久,(1879年)后来被日本蕯摩藩占领,后并入日本版图,改为冲绳县。

闻黎明:西南联大对战后处置日本的若干思考
http://bbs.liuqiu-china.com/foru ... hread&tid=59612


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 楼主| 关天培 发表于 2018-3-1 00:05:55 | 显示全部楼层
《二十四史》中对此事有记载:「考日本之为国,不过三岛,浮沉东海,犹一粟,土地、军事俱不及中国十分之一」。


清朝晚期主战的「曾广均」(曾国藩的孙),曾经在甲午战争前过于乐观说:
清廷必须通过此仗把日本从世界地图上抹去!让日本成为大清的一个省!
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